足して2で割る解決?―いいえ、違います。

交通事故の損害額をめぐって、例えば被害者側が1000万円、相手方が500万円と主張し、結果700万円か800万円程度で解決するということがあります。
  そうして経験則上、このようなケースが、一番スマートな解決(双方とも明らかな無理を言っていない、大筋の読み違いもない)であることが多いように思われます。当事者同士の話し合いだけでなく、裁判上の和解や紛争処理センターでもそういったことは決して少なくありません。

  こういうと、世にいう「足して2で割る」(あるいはそれを見越した主張を行う)のが弁護士や裁判所の仕事なのかと思われますが、決してそうではありません。両当事者はそれぞれ、根拠を持ってそのような損害額・内容を主張し、裁判所等の審判者はそれらを踏まえて、最も妥当と考えられる判断をするのです。

法的紛争の弁証法的な発展

  訴訟(ないしそれに類似する法的紛争解決手段)のこのような構造は、多くの法律学者が分析されていますが、ここで団藤重光教授の御見解を紹介しましょう。
 「両当事者(民事では原告・被告、刑事では検察官・被告人)は鋭く対立しながら自らの立場を主張し、裁判所はより高次の公平な立場からその上に立って、両者の主張の中の正しい契機をみとめ、いわばそれらを止揚することにより、正しい裁判を下だすべきである。
  そこには、多かれ少なかれ、いわば弁証法的な発展がみられる。当事者の対立が鋭い点では民事において、判決における高次元での総合性がとくに要請される点では刑事において、このことは、よりよくあてはまるであろう。」(『法学の基礎 改訂版』(有斐閣 平成13年)221頁)
 「訴追者としての検察官と被訴追者としての被告人の間には明白な立場の相違があり、それぞれの主張はたがいに矛盾し対立する。しかも、双方の主張は矛盾しながらも、それぞれの立場としては正当な根拠をもつものである(たとえば、検察官側が刑の一般予防的効果の方面を強調するのに対して、被告人側がその特別予防的効果の方面を強調するなど)。その際、正しいものはかならずしもそのどちらか一方に、または双方の折衷にみいだされるのではなく、むしろ、しばしば双方の主張がそれぞれ一つの契機となってより高次の立場に止揚されるところにみいだされる。そこに裁判所の正しい断案があるのである。ミッターマイヤーのいわゆる総合的真実(synthetische Wahrheit)もかようなものであろう。」(『新刑事訴訟法綱要 第7版』(創文社 昭和42年)88頁)
  重要なことは、法的紛争の解決は双方の立場が、「より高次の立場に止揚される」ところにあるということです。「止揚」はドイツ語„aufheben“の訳ですが、この語には「廃棄する・否定する」という意味と「保存する・高める」という2系統の意味があり、哲学用語としては、あるものがそれ自体としては否定されても、高次の統一の段階で生かし保存されるという意味合いを有します。
  これを敷衍すると、先ほどの例で、和解の条件となった700万円ないし800万円は、各当事者の主張したところの1000万円・500万円とは(たとえそれが2つを足して2で割った数値とおなじであっても)もはや同次元のものではないということです。
  両当事者の主張の中間的なところで解決が実現するのはおそらく、双方がともが一定の合理性ある主張、相応な立証活動を行っており、結果的に両者の立場がより高い次元で調和した結果ではないかと思います。

法的紛争とその解決にある社会的な意義

  当事者の主張はあくまで自分の立場に即したものであったのが、解決(判決・和解・調停等)となると、自分だけの立場を超え、社会の共有物となるという点で一段高い立場に上るといえましょう。いわゆる「判例」とまでなると類似の事案の解決基準として機能しますし、裁判上の和解や調停、あるいは紛争処理センター等の解決例であっても、以後何らかの参考とされることは少なくないと思われます。
  このように考えると、法的紛争というものは辛いものですが、その解決を通じて、社会公共にとって価値のある新たな何かを生み出す契機を有しているといえます。ですから、私たちは各案件について、無理を言わず、それでいて自分の立場を貫いた主張をするよう努めているのです。
  「弁証法(Dialektik)」といえば、哲学者の中埜肇教授は、その精神の1つとして、「非固定性・柔軟性」を挙げ、「現実とともに動きながら、そのもつれをたんねんに、無理をせずにゆっくりと解きほぐす柔軟な思考」である旨論じられています(『弁証法 自由な思考のために』(中央公論社 昭和48年))。これなどはまさに法的紛争解決過程のあるべき姿ではないでしょうか。
  なお、中埜教授の所説によれば、弁証法という思考方法は、絶対的権威や形式論理を否定するものです。「弁証法」という言葉自体は西欧哲学的ですが、このような発想はむしろ、「八百万の神」とともに、「諸行無常」を知りながら、四季の循環の中で生きてきた私たち日本人により馴染むもののような気さえします。
  このようにして、弁証法的発展を内在する法的紛争解決手段も、わが国の風土に馴染む形で展開していく可能性は充分にある、そのために微力を尽くしたいと私は思うのです。