裏切られた?

交通事故被害者の方から委任を受け、相手方損保会社に「当職が○○氏の代理人として交渉に当たることとなりました。」旨の受任通知を送りますと、その担当者の方から時として、「えっ?どうして弁護士の方がつかれるのですか?」と驚かれ、交渉に入ってその方の損害についての評価(端的に言えば金額ですが)に相当開きが出てきますと、「受任通知をいただいた時、○○さんに「裏切られた」と思いました。」とさえ言われることがあります。その際、「○○さんは笑って私とお話ししていたのに、どうして?」となり、さらに私たちが紛争処理センターに申立をするや、「何でもかんでも紛争にしないで下さいよ。」と言われたことさえあります。

裏切り行為ではなく、正当な権利

交通事故被害者が弁護士に委任するのは、相手方損保会社に対する「裏切り」なのでしょうか?
交通事故の適切な解決は、民法や自賠責法といった法律に基づいて損害額・賠償範囲を確定することによって初めてなし得るものです。そして、被害者と相手方損保会社との間で、損害額の評価等に相違が生じるのはある意味当然であり、その中で被害者は自らに有利な解決を目指す権利があります。相手の言いなりになって納得いかない補償で満足しなければならない理由はどこにもありません。
相手方損保会社は、被害者にとっては交渉相手です。対立利益の当事者といっては言葉がきついですが、少なくとも潜在的には、異なる見解をぶつけ合う関係にあるといえます。よって被害者には、何らかの手段で自分の利益を守るために合理的な行動を取らなければならない局面が必ず出てきます(相手方損保会社もそのことは、重々承知されているでしょう。)。
ですから、被害者が弁護士に委任するのは、自らの利益保護のための正当な行動であり、相手方損保会社に対する「裏切り」でも何でもありません。

むしろ、被害者の責務

特に、当初予想したよりも重い症状が出たり、失職など予想外のところまで損害が波及するような場合もあります。そうなると、通常の被害者ならどこまでが補償の範囲内たりうるのか、必要な主張・立証はどのようなものなのかを判断し、自ら実行することは難しいでしょう。そこで自分の手では納得いく解決ができないと考え、法の専門家である弁護士に相談、委任するのは当然の合理的な行動です。風邪で熱が出てきた場合、医師に診てもらうのと何ら変わりありません。
むしろそのような場合、人によっては法の専門家の判断を求めることが、被害者の責務だとさえいうかもしれません。
19世紀ドイツの著名な法哲学者ルドルフ・フォン・イェーリング(Rudolf von Jhering)によれば、権利の生涯とは闘争である、権利は衝突の表現としてのみ意味を持っている、自分の権利を明らかにすることは、人間の自分自身にとっての義務であるということです。イェーリングの所説を敷衍すると、交通事故被害者はすべからく、相手方損保会社に対し、自らの適正と考える損害額を主張し、己の賠償請求権の実現を目指して闘うべしということになるでしょう。
まあ、イェーリングの主張はやや過激な言葉で語られている面がありますが、それでも一面の真理を鋭く突いているのはいうまでもないでしょう。日本国憲法12条に「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」(下線は筆者)とあるのも、イェーリングの所説と併せて考えるとき、興味深いものがあります。

裏切ったのは相手損保会社かも?

ともあれ、交通事故被害者の方は、相手方損保会社から、最終的には適切な補償が得られることを期待しています。万一、相手方損保会社がそのような被害者に対して、専門家のところに行かせないで、ご自分が適切とお考えの内容での示談が成立することを期待されているというのでしたら、そちらの方こそ被害者に対する「裏切り」ではないでしょうか?相手方損保会社と被害者の間の経験や情報量の格差にかんがみるとき、それは尚更といえるでしょう。
思うに、権利の実現をめぐる交渉は相互に信義とルールを保持しつつ行われる闘争的局面であり、いわば武道やスポーツの試合のようなものです。剣道の試合で、一方だけが竹刀を持って立ち、相手に素手で立ち会わせてよい道理がありますか?