飲食店で、従業員の人のミスで怪我をしてしまったという方から相談を受けたことがあります。
 今回は、そのような事案を通じて考えたことを書いてみようと思います。

なぜ、このような事故が起こるのでしょうか?

 飲食店でのこのような事故は、決してその数も少なくはないと思いますが、背景には使用者(会社)側の指導の不徹底、労務管理の問題などが潜んではいないでしょうか。
 近年、「ブラック企業」なる言葉をしばしば耳にします。飲食店などでも不慣れな従業員を前線に出し、長時間働かせて慢性的な過労状態に陥らせているといった実態も指摘されています。不慣れに過労が重なれば、不注意・ミスが起こらない方が不思議です。経営側は効率・採算のためにこのような労働を強いるのかと思いますが、却ってそれが業務効率を低下させ、多大な不利益を生み出している(損害賠償や社会的評判悪化による売上の低下など)ことはいうまでもないでしょう。
 格安を打ち出したバスツアーでの大参事、睡眠不足や過積載に起因するトラックの事故などが近年頻発していますが、その根底には共通する問題が存在するように思われます。

従業員への苛酷なペナルティは許されません!

(1)さて、このような事故が発生した場合、使用者(主として経営会社でしょう)が民法715条(使用者責任)に基づき、被害者に賠償する責任を負うことはいうまでもありません。
 その後、会社と従業員の関係も問題になりえます。会社は従業員に対し、会社が払った分の賠償額を請求し、あるいは解雇を含む懲戒処分をすることも充分考えられます。
 しかし、その内容によってはあまりに酷に過ぎることになりかねません。
(2)会社から従業員に対する請求は、「求償権」という形で民法715条3項において認められています。
 しかし、会社が従業員の活動により多大の利益を収める反面、従業員は必ずしも良好とはいえない労働条件で、しかも危険な活動に従事しなければならないことも少なくないのが現実です(吉村良一『不法行為法 第4版』(平成22年 有斐閣)221頁参照)。それゆえ、会社からの全額求償のようなことは、ほとんどの場合認められないでしょう。
 実際、最高裁判例でも、使用者から被用者への求償権の行使は、「信義則上相当と認められる限度で」許容されるとしており(最高裁昭和51年7月8日判決(民集30巻7号689頁))、当該事案では4分の1が限度とされています。この判決については、また日を改めて検討しようと思いますが、さらに、信義則上求償がそもそも認めがたいケースもあるのではと思います。
(3)刑事事件でも、使用者の無理な指示にやむなく従って事故を起こしてしまった被用者の責任が、否定ないし軽減された例があります。
 例えば、19世紀末のドイツで「暴れ馬事件」と呼ばれた事案は次のようなものです。尻尾で手綱を絡めつけて御者の制御を邪魔する悪癖を持つ馬車馬があり、雇主も御者もその悪癖を知っていましたが、雇主は御者の懇願にもかかわらずその馬の使用を命じました。御者は従わなければ職とパンを失うおそれが充分にあり、やむなく命令に従ったところ、果たして馬は通行人を傷つけたというものです。過失傷害に問われたこの御者に対しライヒ裁判所(Reichsgericht:現在の日本でいう最高裁判所に当たります)は、無罪判決を下したのです。
 日本では、「第五柏島丸事件」(大審院昭和8年11月21日判決(刑集12巻2072頁))と呼ばれる事案があります。これは、定員の5倍以上の乗客(定員24名に対し120名を超える乗客)を乗せたために発動機船が沈没し、多数の死傷者を出した事案です。下級審では被告人である船長に禁固刑が宣告されましたが、大審院はこれを破棄し、罰金刑に留めました。多数の通勤者が先を争って乗船したのに取締りの警察官は出航時刻の励行のみを促し、定員超過の点は看過していたことや、船長の再三の注意にもかかわらず、船主が採算上の理由から多数の乗客を乗せるよう命じたことなどを考慮したようです。
 これらのケースは、刑法の「期待可能性(Zumutbarkeit)」の議論で引き合いに出されます。「期待可能性(がない)」とは、具体的な状況のもとにおいて、その行為をしたことが全く無理もない―その行為をしないことが期待されえない―場合には、行為者に非難を帰することができず、責任が阻却されるという考え方です。
(4)民事法と刑事法はその目的・存在意義も異なりますが、不充分な教育訓練、劣悪な労働環境のもとでの就労を余儀なくされている従業員はいわば、被害者的な側面を有することは配慮されるべきではないでしょうか。特に貧困や失職の危険があるような場合、「期待可能性」の低さも考慮して、使用者側からの求償や懲戒は否定すべきケースも多いように思います。

進歩しない人類?

 短期的な成果ばかりを見る雇主、劣悪な労働環境に泣く被用者…一体いつまで私たち人類は、こんなことを繰り返しているのでしょうか?少なくともわが国では昭和後半期に、福祉国家のもと一度は克服された問題の、再発の観さえ呈しています。その意味では暴れ馬事件も第五柏島丸事件も、現代の話でしょう。
 ドイツの哲学者であるカントは、人は自分の人格においても、あらゆる他者の人格においても「人間性を単なる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱うように行為せよ。」と説きます。カントの時代から200年以上経っても、人が人を金儲けの「単なる手段」として利用しているとしかいいようのない事態が継続しているとは、ある意味絶望的なことかも知れません。
 それでもわれわれは、希望を捨てるわけにはいきません。希望を捨てることは何事であれ、好転・進歩の可能性を自ら閉ざすことなのですから。